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2012年 05月 09日
昨日(5月8日)、姫路市立美術館へ「麗しき女性の美」展を見に行きました。明治、大正、昭和にわたって色々な作家の描いた女性を見学しました。その作品集の中に樋口富麻呂先生が描かれた沖縄の女性たちの「往く船」に出会い大変びっくりしました。
私は学生時代、京都の永観堂のすぐそばに下宿していて、永観堂の池でよく魚つりをしていました。今は魚つりは禁止ですが、当時は堂々と魚つりができました。通りがかりの人が、私の魚つりをみて、色々と話しかけてこられました。ある日、一人の初老の人が、「つれますか」と話しかけてこられて、私のすぐ横にじっくり座って見物しておられました。夕方、その老人から伝言があって、「家を訪問してほしい」とのことでした。さっそく着替えをして訪問しました。永観堂の正門の東側向かいに「山源」というラーメン屋さんがあって、その2~3軒東の小路を入って10mほどのところにご自宅がありました。それが樋口富麻呂先生でした。 お宅に入ると先生が出迎えられて、「なんや服替えたんかいな、昼間の格好で来て欲しかったんやがな」とおっしゃるので、すぐ引返して、昼間のよれよれの麦わら帽子かぶって、ポロシャツ着て、出直しました。夕食をごちそうになり、「ちょっと絵を描かせてもらいたいんや」と言われて、約3~4時間私をモデルにして、スケッチとクレパスによる簡単な色彩画を3枚描かれました。簡単に描かれたので気にもとめませんでした。その後、時々先生を訪問し、先生がしばしば沖縄へ行かれているお話を伺っておりました。ある日、「四条で私の展覧会をやるので見に来て下さい。」と樋口先生からご案内を頂き、出かけました。四条の高島屋から10数メートル西の画廊でした。 たくさんの作品が展示されていましたが、その作品集の中に、私をモデルに描かれた3枚の作品が展示されていたのです。タイトルは「若い人」、クレパスで濃い茶色と肌色を荒っぽくまぜたような作品でした。説明に、「最近の若い人は一見粗いように見える服装をしているが、強い日射を防ぎ、涼しげでよく調和している。その若さを表現するためにクレパスを使って描いた。」とありました。「私をモデルにして、いいことを云って下さっているなぁ」と思いました。展覧会の後、「お礼に」ということで、3枚の内の1枚を頂きました。私を描くレベルの先生なんや、ということで、あまり気にもとめず頂いた絵を姫路の自宅の勉強室のかべにかけて忘れておりました。 今回の展覧会における樋口先生の絵は、姫路市立美術館が京都市美術館からお借りしたそうです。貴重な作品らしいのです。 「さあ大変、あの頂いた絵は、今どこにあるのか?私の勉強室は朽ち果てかけているし、どこかへ移動されているはず。大至急、飾西の家を家捜ししなければ」今もあるかどうか自信がありません。 # by himeji-mayor | 2012-05-09 11:10
2012年 04月 04日
東海・東南海・南海地震の規模などを検討する内閣府の有識者会議によって最大級の地震が起きた場合の震度と津波高の推計値が発表された。
20m以上の津波が来ると分かっても、それによる被害を防止するためには、全国家予算を投じても足りないと考えられる。しかも、津波を防ぐ、強くて高さのある防波堤を作ってしまえば、海岸部の景観は大変みじめなものになるだろう。 この予測を前提にして、これからどうするかを、全国民を巻き込んで真剣に検討することこそ最も大切なことであると考える。 地震、津波が確実に発生するこの日本列島に居住し続けるならば、「この災害と同居する」という覚悟をまず共有しなければならない。何百年に1回の大災害が発生した場合、かなりの被害発生は避けられないことを覚悟し、その時には、命を守るための避難所・避難地の配置と避難の方法そして、経済活動、社会機能等を維持又は再開するための最低限の資産を保全する方法を綿密に計画しておく、そして我々日本国民の誰が、どの地域がそのような災害の被害を受けるかは「運」であることをみんなで覚悟して、国民みんなで被害を分担する(「助け合う」というよりは、もっと本気で「分担する又は負担する」)合意と方法をまとめておくことが必要と考えられる。 そのための「震度と津波高の予測値の発表である」と理解している。 # by himeji-mayor | 2012-04-04 11:05
2012年 03月 30日
姫路ロータリーが平成4年に始められた「銀の馬車道サイクリングイベント」が、3月25日(日)にありました。生野から姫路市役所南の三宅公園まで約50kmを自転車で走るもので、私も大手前公園から市役所まで参加(キセル参加)するつもりで、やる気満々で待ち構えていたら、「予定変更のため三宅公園で出迎えてくれ」との非情な命令で、三宅公園に直行致しました。
「銀の馬車道」については多くの資料があり、前姫路獨協大学准教授の白井先生の研究報告等もまとめられていますので、それらを参照して下さい。 当時の最先端高速産業道路の沿線に現在2市3町が分布しております。この2市3町が銀の馬車道を軸として連携し、観光事業等を工夫して地域の振興を進めており、このサイクリングはそのひとつであります。 今、地域分権が叫ばれ、各基礎自治体は市町民への行政サービスの充実とそのための財源の確保、経済の振興等の困難な課題に取り組んでいます。 「広域連携」は、そのための有効な手段のひとつと考えられ、姫路市は播磨の中核市として、この地域連携を積極的に推進中です。消防・防災については早くから広域連携が進んでおり、播磨の市町の協同と助け合いの体系が整いつつあり、すでに実績もかなり挙がっています。医療についても現在広域的連携が一部実現しておりますが、今後さらに充実して参ります。教育については色々と議論があり、慎重に進めなければなりません。環境、特に廃棄物処理についても、広域連携を検討する段階に来ております。産業・雇用については早くから広域連携形態となっており、今後、地産地消をスローガンに農林漁業についても広域連携を発展させなければなりません。そして何よりも、播磨に豊富に存在する多様な観光資源を活用して、広域観光の体系を研究し、着実に実現していくことが重要な課題です。 このように見てくると播磨は、姫路を中心に各市町が重要な役割を担い、広域連携の体系を構築して、地域の振興と人々の生活の充実を増進するための条件は整っており、すでにかなりの部分で実現しているわけです。姫路市は形態にあまりこだわらず実質的な政令市の形態を目指しております。それは上記のような目的に加えて、もうひとつ目的があります。播磨は近畿といいつつも、近畿の最西端(far west =極西)に位置しており、国内や近畿、そして県内においてもあまり知名度が高くなく、色々な出来事や企画において、ともすれば忘れられかねない状況にあります。 播磨の市町が協力して、力をつけ、住み良い地域を形成し、その存在を全国に認めさせることが重要と考えています。 # by himeji-mayor | 2012-03-30 11:00
2012年 03月 27日
来年(平成25年)の3月31日から4月7日までの8日間、「播磨国総社第22回三つ山大祭」が開かれる。
播磨国総社は、射楯兵主神社に、養和元年(1181)に播磨国の大小明神が勧請され、播磨国の総氏神・総社としての性格を持った。今も本殿には播磨国16郡の大小明神174座が祀られている。なお、播磨国総社は、正式には「射楯兵主神社」といい、延歴6年(787年)に兵主神、射楯神が現在地近くに併せ祀られたもので、その兵主神は、欽明天皇25年(564年)に水尾山に鎮座されたのが始まりといわれている。大変古い歴史があるわけです。 三つ山大祭は、旧領主赤松晴政による式年制定以来、20年に1回開催され、400年を超える期間、一回も途絶えることなく継続されてきたといわれている。また、60年に一度開催の一つ山大祭も伝承されている。 この三つ山大祭・一つ山大祭は、非常に重要なお祭りで、兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されている。期間中には、古式ゆかしい神事や演能、練り物行列等があり、歴史の重みを感じることができる。 一方、出雲では、三つ山大祭が60年に一度、一つ山大祭が20年に一度となっており(播磨の方式の裏返し)、宍粟市の伊和神社では、出雲方式でお祭りが催されている。要するに、この播磨地域は、出雲文化と伊勢文化の境目になっている。 古代出雲の国と大和の国の間で、世界に例を見ない平和的な無血の二国合併があったことが古事記にも記されており、両国の境界にある播磨の歴史を、お祭りや芸能、文化等に注目しながら探っていくことも大変興味深い仕事になると考えられる。 # by himeji-mayor | 2012-03-27 10:45
2012年 03月 23日
姫路城は奇蹟のお城です。姫路城は、重大な局面で奇跡的な幸運に恵まれ、今日まで残っています。
赤松貞範が1346年に姫山に砦を築いたのが姫路城のはじまりといわれています。その後、赤松氏の一族で御着城を居城とする有力者小寺政職のもとで、家老黒田職隆(黒田官兵衛の父)が姫山に小城を築き、ここで黒田官兵衛が生まれました。その後、官兵衛によって姫路城は羽柴秀吉にゆずり渡され、秀吉が三層の天守閣をもつ城を築きました。1600年関ヶ原の戦いで功績をあげた池田輝政が五層の天守閣をもつ連立天守方式の優美な姫路城を1609年に完成させました。 明治維新の時、姫路藩は佐幕派とみなされ、薩長を中心とする倒幕軍に攻撃されました。これは重大な危機で、倒幕軍は姫路城を砲撃しました。ただ大砲を撃ったのは、備前藩の兵士でした。池田家の子孫を藩主にあおぐ備前藩の藩士は、藩主の祖先である池田輝政の建てた城を砲撃することを躊躇したことと予想されます。幸いお城は塀と門の一部を損傷しただけで生き残りました。 第2の危機は、第2次世界大戦の連合軍による空爆です。姫路市は1945年7月3日の空爆で、市街地の70%以上が焼失しました。その焼け野原の中に、姫路城の天守閣が無傷で超然とそびえて、市民に元気を与えました。 大被害を発生した7月3日の空襲後、夜を徹して焼夷弾処理に走り回っていた鈴木頼恭小隊長は、翌日の朝、姫路城大天守最上階の床に100ポンド(約45kg)の焼夷弾がころがっているのを発見。窓から見上げると、軒端の瓦が四枚なくなっている。瓦をとばして窓からとび込んだらしい。信管が通常の物と異なるので処理の仕方が分からないまま鈴木さんがその焼夷弾を城外の広場までかつぎ出して、爆発させ無事処理できました。この第3の危機から免れたのは、本当に奇蹟的なことです。その焼夷弾が窓からとび込む時に、どこかにあたって爆発していれば天守閣は焼け落ちたはずです。また、窓からとび込んで床に着弾した時に、信管がきっちり働いて爆発していればやはり天守閣は焼け落ちたはずです。 まさに、奇蹟的な幸運に守られたお城です。受験生や海外旅行者等、幸運を祈る人は、姫路城にあやかれば大きな幸運に恵まれるはずです。まだ姫路城の幸運にあやかるお守りは作られていませんが、「白鷺の城」というお酒や「白鷺陣屋」、「五層もなか」等のお菓子がありますので、お試し下さい。 # by himeji-mayor | 2012-03-23 17:20
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